グッモーニン グッナイ|糸井のぞ【全1巻】
一年前に姿を消した恋人を恋しがる主人公アヤと、人探しをしているのだという記憶を失った青年リネアの、日本ではない石畳と石壁の美しい街が舞台のお話。
どこだろうここ。イタリアかなあ。
白黒の漫画の中に、白い石壁と赤や青、橙の屋根が見えるような世界です。
(あとがきを読んでみたらベースはクロアチアだそうです。画像検索したらまさにでした)
許せないのに優しく世話を焼くアヤと、許されないことをしたけれど何の後悔も反省もしていないリネアが
もう最高にたまらない。
しかもアヤは許さないのだと、あとがきで明言されてしまった。FOOOOOO!!!
培ってしまった情が優しく先行する関係性っていいなあ。
もううまく表現出来ている気がしない。
決して作中で描かれるのは殺伐とした関係ではなくて、かつての恋人を愛していたことと、それでも目の前のリネアが腹を減らしていたら食事を作ることが同時に出来る。
多分アヤは許そうとして許せないことにすらフタをして、穏やかに時がそれらを慰めてくれるのを待ってる。
あとね、もうね、これは完全に私の性癖なのだけど、食べ物と愛の話にすこぶる弱いんです。
単純に食べ物が好きというのもあるし、テレビの画面や小説、漫画や絵画、別の世界で描かれる食べ物や食事の風景が好き。
食べ物を分け与える姿も、それを咀嚼する姿も。
肉食獣は愛しさをもって獲物を食いちぎるのだと何かで聞いたことがあって、そして甘噛が愛情表現にあたるのもそれに似ているからだと聞いたことがあります。
多分私が感じているのはそれなんです。
日常風景や営みにある食事風景が好きな反面で、モノを食み、体内に取り込むことや、取り込まれること、取り込ませることに得も言われぬ愛しさを感じる。私が。
そして取り込んだものや取り込ませたもので彼らが動いていることに、業を思い、力強さを感じる。
生きることそのものに直結した力強さを感じる。
好きな「食べるシーン」は、この作品の中にも数多くあって、そしてまたすごく好きなのは、食べることは必須条件ではあっても食べるだけじゃ生きてかれないってところなんだ。
食べることで、欲しいものを埋めていくような描写がすごく好きだ。
欲しいものはその料理が出て来る環境であり、その料理を何の罪悪感もなく食べられることであり、温かいスープの中には、その温かいスープを作ってくれる誰かと、それを何の疑いもなく愛情をもって差し出してくれる誰かがいる。
それが欲しいんだ。それが欲しかったんだ。
温かいスープと、恋人とソファで寝転ぶ幸いを得たかつてのアヤの恋人は
やはり自分のすべきことをしなければならないと死地に赴いて、それはリネアに受け継がれた。
食べることを放棄するほどに打ちひしがれたアヤをここに戻したのは、やはり温かいスープで、でもそれを差し出したのはかつての恋人を殺したリネアなんだ。
この生死と交錯してる食の描かれ方が堪らなく好きなんだよ。
祈りと救済の物語に惹かれる理由もそうなのだけど、そしてそれは「グッモーニン グッナイ」にも感じてならないのだけど、最後の一歩の時に何がこの人を支えていたのかとか、最後の最後までこの人が捨てられないものは何なのかとか、そういうものが見えると本当に堪らない。
食がそこに関わることでテンションがダダ上がりしてしまうのは、食と生きることがすごくストレートに繋がっているからなんだよな。
何か食べることばっか書いてしまったけど、アヤとリネアの交流を深めていく情景が、美しい街並みの中で描かれていくのがとても美しい作品なんだ。
美しくて切ない。
しかも切なさや情緒を一身に請け負っているのはアヤで、リネアはまるで真逆に切り捨てて振り切れているところがすごく良い。